グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ


就職・キャリア

ホーム >  就職・キャリア >  卒業生の方へ >  聖隷看護教育70周年・看護学部30周年記念特別インタビュー

聖隷看護教育70周年・看護学部30周年記念特別インタビュー



聖隷看護教育70周年・看護学部30周年記念事業について

2022年度、聖隷クリストファーは看護教育を始めて以来70年、さらに、看護の専門性を追求する大学教育の開始以来30年を迎えました。
大学ではこれを記念し、発足当時から現在に至るまでの歴史を振り返り、看護教育のあゆみを振り返るべく、記念事業を開催しました。

こちらの事業の一環として、卒業生で聖隷および地域の看護の発展に深く関わられてきた方々へのインタビューを行い、聖隷の当時の思い出や、卒業生が考える聖隷の看護、仕事のやりがいや看護職を目指す人達に向けたメッセージなどを語っていただきました。
インタビューの内容につきまして、当ページおよび広報誌「クリストファー」特別号で紹介させていただきます。

※記載内容は掲載当時のものであり、閲覧される時点では変更されている可能性があることをご了承ください。

大学からのご挨拶

看護学部長ご挨拶 藤本 栄子 教授

社会のニーズに応える聖隷の看護教育
 この度本学園におきましては、1952年の聖隷准看護婦養成所開設から70年、1992年の聖隷クリストファー看護大学開学から30年を迎えました。これはひとえに皆様方からのご支援の賜物です。心より厚く御礼申し上げます。

 これを記念し、本誌では要職を歴任された卒業生の皆様にインタビューを行わせていただきました。学生時代の懐かしいお話から役職者としてのご活躍、また未来の看護職者へのメッセージと多岐に渡る貴重なお話を賜り、この場をお借りして御礼申し上げます。

 さて私は、聖隷クリストファー看護大学初代学長(当時、聖隷学園浜松衛生短期大学学長)の吉田時子先生にお声をかけていただき、1988年4月に聖隷学園浜松衛生短期大学(以後、短期大学)の母性看護学の講師として就任致しました。以後6年間、短期大学に勤務し、1994年4月に聖隷クリストファー看護大学に異動となり、現在に至ります。短期大学と大学を合わせて35年近く、聖隷学園に勤めさせていただいています。この間には、看護大学の設置、短期大学の発展的解消、大学院の開設と大きな変革期が何度も訪れました。その度に隣人愛の実践とは何か、聖隷の看護教育はどうあるべきなのかという問いに正面から向き合い、チャレンジを重ねてきました。

 そして今、看護学部では2022年4月の入学生から新カリキュラムがスタートしました。この作成にあたっては、今後5年から10年先を見据えた内容とするため、2019年4月に准教授を中心に若手の教授からなる「中長期ビジョン検討委員会」を立ち上げ、同年11月に提案書をまとめました。この提案書は、2020年のカリキュラム改革委員会に引き継がれ、次のような学生像が新カリキュラムの基本方針となりました。

 1)聖隷の建学の精神を持ち、人を生活者として理解し、その人の尊厳を守り生活を支援できる学生
 2)看護学を追求することができる学生、特に看護に対し自分の考えや思いを積極的に表現して視野の拡大や思考の深化を仲間と共有できる学生
 3)多様な経験(ボランティア活動、国際交流など)を通して未来を切り開く力、フロンティア精神のある学生

 最近のコロナ禍での社会生活や日常生活を経験していますと、未知の状況や危機に対応するための科学的知見と、それを日常生活に生かすことの重要性を実感します。この様に日々生まれる社会の新たなニーズに応えていくため、聖隷の教育に携わる教職員は一体となり、この大きな教育改革へ全力で取り組む所存です。

 今後とも、忌憚のないご意見やお考え、ご支援を下さいますようお願い申し上げます。

研究科長挨拶

看護学研究科長ご挨拶 樫原 理恵 教授

地域住民の医療ニーズに応え、より専門性が高い看護職の育成を行いたい
 聖隷看護教育70周年・看護大学開学30周年を記念して、広報誌クリストファーでも特別版を作成することとなりました。本学看護学部においては社会から求められる看護職者の育成を続け、大学院では看護実践者が抱える課題や向上心に応え、より専門性の高い看護職者の輩出を続けています。70年前の看護教育者の思いは看護学研究科にも引き継がれ、博士前期課程、博士後期課程の学位授与方針には『「生命の尊厳と隣人愛」の精神を基盤とする倫理観を身につけ、看護学分野の質の高い実践、教育・研究に反映すること』が求められています。

 本学の大学院は1998年に看護学研究科(修士課程)としてスタートし、2008年に他研究科と総合する形で保健科学研究科博士後期課程を創設、その後各学問領域の専門性の高さからそれぞれの学問分野として独立し2011年には県内で初めて看護学博士前期課程・博士後期課程を有する教育課程となりました。博士前期課程には12の看護学分野・領域があり、修士論文コースのほか、高度実践看護者も育成しています。1998年以降修士課程では135名の方が看護学修士の学位を取得し、その内28名が専門看護師として活躍されています。博士後期課程においては、より専門性の高い看護学分野における研究活動を通し、保健科学研究科(看護学博士)修了生14名、看護学研究科修了生(看護学博士)27名を輩出しています。

 看護学研究科では、“社会から求められる役割があるのなら、その役割を担うための必要な人材を輩出すること”を使命に掲げ、教育を創りあげてきた先人の思いを引き継ぎたいと考えています。日本では高齢化のますますの進行、在宅で医療を必要とする療養者の増加、医療ニーズの膨大な発生、医療関係職員の働き方改革などにより、住民の健康を守るための医療提供の不足が課題として挙げられています。これらの課題に対し先駆的に取り組む方略として、地域住民の医療ニーズに応え、医療提供できるより専門性が高い看護職の育成を行いたいと考え、新た
にプライマリケアNP教育プログラムを構想中です。

 看護学研究科は、これからも社会から求められる看護職の専門性を高めるとともに、看護学分野の発展に貢献したいと考えています。

卒業生インタビュー

鎌田 裕子 様(聖隷福祉事業団 理事 常務執行役員 人事企画部長)

聖隷学園浜松衛生短期大学 第二衛生看護学科
1981年度卒

チャレンジすれば、必ず達成感や成功を体験でき、その喜びが次への活力になる

幼い頃から身近にあった看護の仕事 正看護師を目指して聖隷に

 親戚が開業医で、子供の頃から看護師という仕事を身近に感じていました。地元の高校に衛生看護科があり、文化祭にもよく行っていたので、すんなりと看護の道に進んだように思います。
 浜松市立高等学校時代はバレーボールにも没頭。実業団への誘いもありましたが、人のためになる仕事である「看護」のステップアップを図るべく大学進学を希望し、特待生として聖隷に入学しました。
 1年目は自宅から通学、2年目は実習などで忙しくなり、浜松で学生生活を送りました。

キャリアを重ねるごとに実感する「隣人愛」と看護の関係

 入学後、新鮮に感じたのはキリスト教の精神。子供の頃友人に誘われて教会に行ったことはありましたが、クリスチャンではないので馴染みのないことでした。正直言って、在学中は、あまり共感できていなかったかもしれません。
 しかし、「隣人愛」という聖隷の基本理念が医療・看護につながっていることは、現場に出て経験を積むほどに実感させられる教えでありました。

看護師は患者さんに最も近い存在

 看護師は、365日24時間ベッドサイドで患者さんに寄り添い、看護します。医師から患者さんのデータなどを問われますが、それに応えるだけではありません。患者さんの思いを代弁する立場でもあるので、そんな時「人のために尽くす」といった聖隷の精神が自然と発揮されます。
 また、看護実践をしていると判断に迷う時があります。そんな時は、その患者さんにとってどうなのか、その患者さんはどうしたいのか、ということを中心に考えます。これは無意識にしていることであり、聖隷の理念に通じるものだと思います。

脈々と受け継がれる聖隷スピリット ベトナム難民のいる風景

 大学でもバレーボールをやっていた私は、体育館で高校の男子チームと練習試合をしたり、他の大学との交流試合をするなど、学業以外でも楽しくかつアットホームな日々を送っていました。
 もう一つ印象に残っているのは、校舎の裏にあった「愛光寮」。ベトナム難民の方々が何十人も生活していました。言葉が通じないので直接交流することはありませんでしたが、彼らの姿は私たちの日常風景に溶け込んでいました。これこそが聖隷の創設者の思い、受け継がれている聖隷の風景だと思いました。
 現在、聖隷福祉事業団の内定者たちとの面談では、創設時のストーリーや聖隷の精神などをお話しする機会があります。学生時代にあの風景を見ることができたので、正真正銘の生の声として、説得力を持って伝えることができていると思います。

人の命に関わる看護 その指導は時に厳しく

 在学中は、同級生といっても年齢差があり、良い意味で刺激的な環境でした。年上の友には母親のように相談にのってもらいましたし、逆に現役の私たちは流行りの情報などを彼女たちに提供していました。いろんな意味で助け合っていましたね。
 一方、実習はハードルが高く、怖かったです。今思えば、厳しいのは当然のこと。命に関わる仕事ですから、看護する側に覚悟が必要です。実習の時に厳しく接してもらったことは、その後の医療事故と向き合う業務に携わった際、スタッフの教育にとても役に立ちました。

患者さんだけでなく自分たちも護る、それが本当のリスク管理

 病棟の看護管理者を経験後、医療事故の専任リスクマネジャーを拝命。3年半ほど毎日のように、報告内容を分析して改善策を立て続けました。良い報告がない、携帯は鳴りっぱなし、夜も休みも関係なしで、かなり疲弊しましたが、いつも上司・同僚・スタッフに支えられやりきることができました。
 安全対策と真剣に向き合う中で感じたのは、患者さんの命を守るとともに、「国家資格を持つ医師・看護師等を含め、職員全員を守らなければならない」ということ。職場をより良くすることを常に考え、こちらの提案に病院全体が動いてくれたのは、かけがえのない経験となりました。

経験に無駄はなし。その時々で最適な選択を

 これまでの自分を振り返った時、無駄な経験はなかったと断言できます。例えば、仕事と子育ての両立に悩み、5年ほど離職したことがありますが、管理者になってから、自分の経験と「後輩に同じ思いはさせない」という信念のもと、より働きやすい環境の整備に努めました。
 看護師は、時間的にも体力的にも大変だと思います。でも、焦らなくていいと思うのです。ライフステージに応じた働き方を、その時々で選ぶことが大事。キャリアデザインとかキャリアプランはいつでもできるので、まずは、その時、自分に最適な選択をすること、無理は禁物です。
 管理職に就くこともそうですが、大小いろんなチャレンジをしていると、必ず達成感や成功を体験することができ、その喜びが次への活力となります。また、ちょっと辛く大変な体験も成長の糧に。後輩の皆さんにも、自分らしく挑戦していってもらいたいと思います。
Message to Next

看護は、人に感謝されながら自分が成長できる仕事

 「手で見て護る」と書いて「看護」。看護師は、その人の感性がとても大事になる職業です。また、人に感謝されて自分が成長できる素晴らしい仕事でもあります。
 聖隷福祉事業団は民間なので、いろんなことを柔軟に実行できます。のびのびと仕事ができ、年功序列や性別にこだわらない気風があります。また、日本で初めてホスピス病棟をつくったり、20年以上前からドクターヘリを導入したり。創設以来、真面目に、地域のために、患者さんのために、やるべきことをやり続けてきました。
 そんな歴史ある聖隷グループの聖隷クリストファー大学で看護師への第一歩を踏み出してください。

原品 すみ江 様(元聖隷三方原病院 看護部長)

聖隷学園浜松衛生短期大学 第二衛生看護学科
1970年度卒

東京での経験で「聖隷には看護がある」「聖隷ってすごい」と実感した

ほど良い緊張と驚きの中、スタートした短大生活

 私は、高校・短大の5年間を聖隷で学びました。短大に入学した時は、クラスメートがなんと100人。100人で授業を受ける階段教室の広さと特別感にワクワクしたことを覚えています。また、同期生の約半数は、准看護婦としての実務経験がある大人のおねえさんたち。年齢の違いや、教会で行う朝の礼拝も新鮮でした。
 短大の授業は、高校時代の手技中心と違い理論が多く頭が痛かったです。解剖学ではホルマリン漬けの臓器が出てきたりして、リアルでとても興味深いものでした。

ナースは「やる側」、でも「される側」の体験も大事

 私は徒歩で10分ほどの実家暮らしだったので、準夜勤のアルバイトがない日は、隣接する高校のソフトボール部の手伝いに行っていました。しかし、臨床実習が始まると行けなくなり、緊張の日々を迎えることに。癌末期患者を担当した時は、迷い悩んでいる内に終わってしまい不甲斐ない思いをしました。
 学内実習では胃管挿入の実習時、患者の立場を知りたくて、やる側でなくされる側を経験しました。一期生だった事もあり、全員卒業を目指し先生方が力を入れてくださった補習を受けた事、実習グループメンバーの下宿に集まりコタツで一晩語り明かしたのも良い思い出です。

離れてみてわかった聖隷の看護の真髄

 短大卒業後、聖隷三方原病院に就職し3年間勤務しました。その後、思い切って都立の総合病院に転職。脳神経内科の配属になったのですが、そこで今までにない事態に遭遇したのです。
 オムツ使用の患者さんが異臭を放っていても、定時まで交換しない。口元を動かして経口摂取をしたいという意思を伝えていると思われる情報を提供しても「仕事が増える」との理由で取り上げてもらえないなど、聖隷でやっていた看護とは真逆の現場がありました。それでも負けじと、意を共にする同僚2人とともに経口摂取を可能にしましたが、残念なことにチームケアはできませんでした。
 一方、聖隷時代は、癌末期患者の「一度家に帰りたい」という思いに応えるために一致団結し、スタッフが付添い酸素ボンベを持参して自宅への外出を叶えるなど、気持ちに寄り添う“患者第一の看護”が当たり前でした。そんなことを懐かしく思い、わずか1年で浜松に戻りました。東京での経験は、「聖隷には看護がある」「聖隷ってすごい」と実感した出来事となりました。

気がつけば夢中になって、患者さんと関わっていた

 私にとっての「看護」とは、第一希望の仕事ではなかったけれど、いつの間にかまじめに取り組んでいた仕事。自分を育ててくれたものでもあります。不安もたくさんあったけれど、患者さんを目の前にすると、病床数を超えてでも受け入れた。今では問題になるかもしれないが、当時はそれが患者を救う・命を守ること、というチームの共通認識でした。
 婦長になると直接看護の機会は少なくなったが、スタッフの言動から“看護してるなぁ”を感じた時はとてもうれしくなりましたね。看護部長も5年弱経験しましたが、大変な日々の中、皆で患者の力になれるようにと取り組んできた病棟時代は忘れられません。

高校・短大の5年間で自然と身についた使命感

 結核を病み、行き場のない人々を何の見返りも求めず救済し、看病した長谷川保先生の活動が聖隷の歴史の始まりです。高校・短大の教育を受ける中で、意識していたわけではないけど「患者の力になれるよう働く」という使命感のようなものが、私の中に根付いていたと思う。
 また振り返れば、実習現場などの先輩たちからも、知らず知らずのうちに良い影響を受けていたように思います。聖隷では技術や理論だけではない大切なものを学びました。「聖隷の働き」という大きな事業環境の中で、看護の仕事へまじめに取り組めた事を感謝しています。

正看護婦がリーダーを担う時代

 私が卒業した頃は、三方原病院では准看護婦たちが活躍していました。しかし、当時の総婦長は「これからは正看護婦がリーダーを担うべき」とお考えで、一期生から数年の間は、比較的勤務年数が浅くても役職に任命されました。私は、東京から戻って2年目に婦長を拝命。すでに後輩が婦長として頑張っていたので、私も挑戦することにしたのです。
 婦長職ではやるべきことが多くなりますが、見える角度や量が拡大し様々な気づきがありました。婦長職に慣れてきた頃、「婦長」と呼ばれて頑張れていた自分や、任務を果たしていけば誰でも良いのだと思えたことで、役職名の重荷を降ろせた。それから氏名で呼ばれるようになりましたね。職場では話し合いを重ね、スタッフの「やってみよう」の一言を待つ。その一言が事を動かし改善に向かえた時は、チーム力を実感しましたね。
 これから看護師を目指す人、現役で頑張っている皆さんも、上司から管理職への声をかけられたら是非チャレンジしてみてください。自分の知らない、新しい自分に出会えることでしょう。
Message to Next

本当に大事なことを知る聖隷で本物の看護を身につける

 「困っている人がいたら手を差し伸べなさい」「自分のようにあなたの隣人を愛しなさい」などキリストの教えに触れ、聖隷の歴史を学ぶ中で、大切なことは何なのかを習得することができます。
 聖隷の始まりには“本物の看護”があります。看護理論はどこの大学でも学べますが、看護観や看護の心を養うためには、本物の看護を知り、触れることが重要です。それは聖隷ならではの大学での教育と臨床現場にあります。一人でも多くの方が聖隷で学んでくださる事を願っています。

上野 桂子 様(前聖隷福祉事業団監事、全国訪問看護事業協会顧問)

聖隷学園浜松衛生短期大学 第二衛生看護学科
1970年度卒

管理職の白羽の矢が立った時はチャンス 「管理」という役割を楽しんでいきたい

勉強、夜勤、自炊、学校行事、自由で充実した2年間

 私は、聖隷学園浜松衛生短期大学の1期生として入学しました。当時の三方原は、みかん畑と松林に囲まれたのどかな環境。高校卒業者だけでなく実務経験者も多く、年齢も異なる同期生たちと寮で生活していました。
 自炊したり、犬を飼ったり、共同生活をしながら結構自由に過ごしていましたね。皆さん准看護婦の資格があるので、授業が終わった後は三方原病院や浜松病院でアルバイト勤務をしていました。出勤時は聖隷が運行するバスを利用できるのですが、帰りの足はありません。そこで、自治会役員だった私は長谷川理事長に直談判。帰寮のタクシー券を使えるようになったのは、ちょっと自慢の思い出です。
 今回寄稿するにあたりアルバムを開いたところ、三ヶ根山へのハイキング、伊豆旅行、クリスマス会や学園祭、バザーや謝恩会など、たくさんの思い出とともに仲間たちの笑顔や声が蘇りました。

聖隷の看護の根底にあるのは「人のために尽くすこと」

 聖隷は講師陣が素晴らしく、聖路加大学や静岡大学など著名な先生方に学ぶことができました。また、ゼネラルアワーの時間には、聖隷の歴史や精神について学んだように思います。卒業後は聖隷浜松病院で20年、その後法人本部で在宅事業に携わり、聖隷とともに歩み、勉強させていただきました。
 いろんな事業を展開する中でも、そして今も、「人のために尽くす」という聖隷の精神がゆるぎなく自分の中に存在していると思います。

聖隷病院は「看護」でもっている

 私が長きにわたり勤められたのは「聖隷が好き」という一言に尽きます。聖隷には、患者さんや利用者さん、地域住民のために、自分たちのやりたい看護・やりたい事業を実践できる環境があったからです。例えば、スズキ自動車と共同で臀部挙上器を作ったり、転倒リスク軽減のために既存ベッドの高さや幅を改良するなど、現場の看護師が患者さんの安全のためにやりたいと思ったことを次々と実現することができました。
 ある時タクシーの運転手さんに言われました。「聖隷は看護婦さんがいいからね」と。聖隷の看護を直に評価していただいたとても嬉しい瞬間でした。

昭和25年頃から実施していた聖隷の訪問看護

卒業式(1971年)

 私は病院での管理業務を19年間、その後は在宅事業の管理業務に携わってきました。今でこそ訪問看護が全国で行われていますが、聖隷のルーツを辿ると、昭和25年頃には結核患者さんの訪問看護をしていたことがわかります。
 私が携わったのは昭和50年頃のこと。聖隷浜松病院脳外科の看護婦の有志が、夜勤明けを利用してボランティアで始めました。そのうちにケースワーカーも手伝ってくれるようになり、やがて外来の一部に導入。さらに、外来の在宅業務について院内学会で発表すると毎年賞を取るようになり、患者さんたちのニーズも高まって、訪問看護室を立ち上げることができました。
 まだ介護保険などない時代でしたから、私自身も婦長を兼務しながら現場に赴き、試行錯誤しながら家庭での対応方法や家族のフォローを行いました。

「役」を生きる 創意工夫を楽しむ

 私は、聖隷浜松病院に入職し、早い時期に管理職につきました。管理者として私が大事にしていたのは、私自身がやりがいを持ち、聖隷の理念に沿った職場をつくり、自分の看護観をしっかりとスタッフに見せること。人を大切にして、管理という役割を受け入れ、楽しむこと。
 管理職を敬遠したくなる人も多いかと思います。でも、管理職にしか見えない景色、できない経験や学びがあります。 訪問看護においては、聖隷の訪問看護ステーションの開設から静岡県の訪問看護ステーション協議会の立ち上げや、全国訪問看護事業協会の設立にかかわり、その後役員として全国の訪問看護ステーションの教育や事業運営にかかわり、多くの学びをさせていただきました。また、役割上いろいろな研究・検討委員会にも出席し報酬改定や制度が作られるプロセスを知り多くの他分野の方々との人脈を得る機会となったことは私にとっての財産の一つになっています。
 後輩の皆さんも、管理職の白羽の矢が立った時は、それをチャンスと受け止めて「管理」という役割を楽しんでいただきたいと思います。
Message to Next

人を大事にする聖隷で人に寄り添う看護を学ぶ

 聖隷では、隣人愛というキリスト教の理念のもと、充実した手厚い実習環境の中で看護を学び、看護師、保健師、助産師などを目指すことができます。また、看護師の働く場所は、病院や診療所、介護施設、訪問看護事業所などがあります。私は病院勤務を経て、聖隷福祉事業団の訪問看護事業を立ち上げ、地域に根ざした24時間・365日対応の在宅療養を支える仕事をしてきました。その間には、自分の看護観に大きな影響を及ぼす患者さんとの出会いがあったり、様々な管理職を経験することで非常に多くのことを学ぶことができました。そして現在も、患者さんに寄り添う看護とは?患者さんや利用者さんのためにできることは?と日々模索しています。
 看護は、とてもやりがいのある仕事です。皆さんも是非興味を持って、聖隷福祉事業団のホームページを覗いてみてください。

海野 智未 様(静岡県立病院機構 本部看護教育監、元県立総合病院 看護部長)

聖隷学園浜松衛生短期大学 第一衛生看護学科
1982年度卒

これまで仕事を続けてこられたのは、看護という仕事の面白さと仲間の存在のお陰です

看護の道と一人暮らし、憧れを現実にした短大時代

 入院した際、看護師さんの働く姿を見て憧れを抱いたのが中学生のとき。また、一生働ける仕事で、何か手に職をつけたいと思い、看護師を目指しました。中学・高校とミッションスクールだったこともあり、先生の勧めで聖隷を志望しました。受験当日は、母付き添いのもと自宅がある静岡から浜松へ。JR浜松駅から随分遠く感じたこと、売店のおじさんがとても親切だったことを覚えています。
 入学後は、初めての一人暮らしにわくわくしていたものの、遠州の空っ風と坂道が自転車通学の私にとっては過酷で、結局癒しを求めて毎週実家に帰っていたことも良い思い出です。

看護の理念とともにやりがいを実感した3年間

 中学から6年間キリスト教に触れていたため、聖隷の理念である「隣人愛」は受け入れやすかったと思います。その教えは、日頃から相手を思う気持ちを培うものであり、看護の仕事で活かせるもの。私自身も迷ったときには、患者さんがどうあるべきかを考えて関わってきました。
 臨床実習の場面で先生は「可能な限りベッドサイドに行く」と常に説かれ、患者さんに寄り添うことを学びました。印象深いのは、ホスピスと肢体不自由児施設「療護園」での実習。大変でしたがグループで乗り切り、やりがいをもって臨むことができました。

他者を否定せず寄り添う恩師から学んだ大切なこと

 看護師長になってから、ずっと実践していることがあります。それはスタッフに寄り添い、決して否定しないこと。これは恩師の久保先生から学んだことです。先生は学生の話しを否定することなく、いつも温かく寄り添ってくださいました。
 その経験から、私が看護師長になったときは、働きやすい職場にすべく、スタッフとたくさん会話することを意識して、みんなと同じ視点でみれることも心がけました。

看護師デビューから今日まで様々な立ち上げ業務に従事

 私が就職したのは県立総合病院が合併した年で、初年度ということで同期は50~60人いました。「看護師さん」と呼ばれることが嬉しくて、ナースコールは誰よりも先に対応し、一日中走り回っていたことを覚えています。今のような手厚い教育体制はなかったので、ひたすら先輩を見て自分でやってみる、という繰り返しでした。
 当時はまだオープンしていない病棟もあり、準備スタッフとして血液内科の立ち上げに携わりました。その後も、回復期リハビリ病棟の開設、電子カルテの導入など、様々な施設・システムの立ち上げに従事しました。

医療安全の確保にCOVID対策。病院組織を動かすやりがいがある

 看護管理者としては、副看護師長、看護師長、教育師長、副看護部長、看護部長職を経験しました。どの職位も見えてくるもの、目指すことが違いましたが、それぞれの取り組みに面白さがあり、いつもスタッフに助けられてきました。
 中でも、教育師長になった直後に院内で重大インシデントが発生し、看護師全員を対象に勉強会を企画、開催したことは大きな経験となっています。医療安全を守るべく、院内の人員や意識を一つに。大きな組織を動かすことができたのが、大変ではありましたが、楽しくやりがいのあることでした。
 看護部長になった4月、COVID-19が流行。早急に看護体制の再構築、病棟の確保、患者さんの移動など発生当夜から奔走しました。副看護部長とともに全病棟から看護師を集めてレベル別に配置するなど、各部署の看護師の協力がありました。

人との繋がりが宝もの

 これまでに様々な診療科や職位を経験し、ステップアップしながら仕事を続けてこられたのは、第一に看護という仕事の面白さがあります。そして、職業としての魅力と並ぶものが、仲間の存在です。目指す先輩がいて、年齢は違っても共に働き時に一緒に遊びに行くような仲間がいる。看護管理者の立場になれば、スタッフが大勢いて、その一人一人を守らなければいけない使命がある。
 看護師長ともなると、誰も褒めてはくれません。逆に、今日1日私はこれでよかったのか?と省みて1日を終えていました。日々、スタッフからたくさんの元気をもらっています。看護という仕事の魅力は、人との繋がり。スタッフ、患者さんやご家族を大切にしていきたいと思います。
Message to Next

人を大切にする「思い」が重要。聖隷のゆとりの中で身につける

 私が看護師を目指した時代と今では、医療は随分進歩しており、時代背景や患者層、求められるものも変わってきていますが「看護する」こと自体は変わらないと思います。学問や技術的なことは各自勉強、習得できますが、人を大事にする「思い」も忘れずに身につけてもらいたいと思います。
 私は、看護を学ぶのであれば大学をお勧めします。他の学科の人とも交流しつつ、ゆとりの中で学ぶことが大切だと感じるからです。ひとくちに「患者さん」と言っても、年齢も職業も生活環境も様々。看護はそんな人々に接する仕事ですから、視野を広げるためにも、大学で看護を学んでいただきたいと思います。

山本 加枝子 様(すずかけセントラル病院 副院長・看護部長 元浜松医療センター 副院長・看護部長)

聖隷学園浜松衛生短期大学 第二衛生看護学科
1970年度卒

やりがいのある管理者の仕事は、ぜひ挑戦してもらいたい尊い仕事です

正看護婦資格を目指して聖隷に入学 教育の質の違いに感謝

 幼い頃に祖父が肺炎になり自宅療養をしていた時、保健師の叔母が看護をする姿を見て看護婦になりたいと思いました。その後、地元掛川の高校に衛生看護科が開設されると聞き一期生として入学。高校卒業後は正看護婦の資格を取るべく進学を希望しました。聖隷以外にも2つの専門学校に合格しましたが、短期大学での質の高い教育を受けたかったため聖隷を選びました。
 他校に行った友人との会話で感じた専門学校との違いは、短大には一般教養科目があること、詰め込みでない自由な校風、夏休みなど休みがしっかり取れること。さらに、聖隷には教育してくださる先生として、著名な吉田時子先生のような素晴らしい専門家の先生方が大勢いらっしゃったことなど、学ぶことも多く、短大に進学して本当に良かったと思いました。

病室下の仮住まい(学生寮)も住めば都 楽しくも必死に駆け抜けた2年間

 学生時代は、よく笑い、よく遊び、よく食べて、勉強は…それなりに頑張りました。すでに准看護婦の資格を得ていたので、短大の授業が終わると聖隷浜松病院に直行し、準夜勤の即戦力として働いていました。採血や注射など先輩のやり方を見ながら必死に身に着けましたが、大変という思いはなく、楽しかった記憶ばかりです。
 当時は学生寮として改修工事前の病室が使われていて、私を含め数人の学生はそこで数か月過ごすことになりました。上階は病室で、配管跡の穴を通して患者さんの姿は見え、声も聞こえます。当然こちらの光も漏れるので段ボールで塞ぎ生活していました。そんなところでも住めば都です。授業とアルバイトで毎日が忙しく、そして楽しく、2年はあっという間に過ぎていきました。

聖隷との医療環境の違いに戸惑い、自分なりに踏ん張った新人時代

卒業後は地元の掛川市立病院に就職しました。最初に驚いたのは、病院の環境の違い。衛生面やケアに関する物品面、スタッフの意識など、自分がとても恵まれた環境で学んだことに改めて気づきました。聖隷で学んだ当時の最先端の医療や看護をどのように実際のケアに活かそうかと、あれやこれやと試行錯誤しました。
 入職1年ほどでしたが、自分で看護計画を立て、きちんと記録するなど、実践で示すことで賛同してくださる先輩も出てきて、生意気だとは言われなくなりました。

自分一人で始めた清拭ケア 患者さんの笑顔が支えに

 ある時、新品の清拭車と沢山の新品タオルがナースステーションの片隅に使用されずに置かれているのを見つけました。当時の病棟は1病棟80床で2人夜勤という少ない人数の配置でしたので、患者さんの清拭はやられていない状況。看護助手の仕事は清掃とお茶くみや配膳の手伝いくらいで、清拭車の準備もしません。
 私は婦長に清拭車の使用許可をいただき、自分で準備をしました。患者さんの体を熱いタオルで拭いてあげると、皆さんが笑顔になり、気持ちが良くなったと喜ばれました。もちろん終了後はすべての仕事が終わってから片付けも一人で行い、タオルの洗濯をし、干してから帰宅です。疲れよりも満足感があり、患者さんの笑顔が私を支えてくれました。
 始めは一人で行っていましたが、少しずつ一緒にやってくれるスタッフが増えていきました。これらのことは、聖隷短大で学んだ「患者さん第一に考えてケアをする」という精神が自分の中で活かされたのだと思っています。

経験をふまえて環境を整える 管理者だからこそできることがある

 結婚を機に浜松医療センターに転職し、小児科に配属されましたが、すぐに妊娠。当時は育児休暇などなく、夜勤もこなす通常勤務で出産直前まで働き、産後休暇のみで早々に復帰しました。20代半ばで主任になり、その後も婦長になるのが早かったので、勤務環境を整えることにも注力しました。自分が大変だった分、働きやすくしなければ!と。
 管理職の育成については、日々頑張っているスタッフに、管理職にと声を掛けますと大抵、皆さん自信がありませんと答えます。しかし、最初は誰もが管理職の新人。経験を重ねていくことでベテランの主任・師長へと変身していくのです。与えられた部署全体を動かすというダイナミックな仕事は、スタッフでは経験できないことであり、管理者だけが経験できるやりがいのある仕事です。
 また、スタッフ一人ひとりの成長を見ながら、研修を勧めたりすることは、患者さんへのケアをより良くすることにも繋がります。自分がやりたい看護を実現するためにも、ぜひ挑戦してもらいたい尊い仕事だと思います。

急性期のノウハウと経験を活かし、すずかけセントラル病院の立ち上げに参加

 浜松医療センターで定年を迎えた私は、大学の教壇に立つ予定でした。そんな時、新設の急性期病棟を含むすずかけセントラル病院の立ち上げに力を貸して欲しいとお声がけいただきました。急性期のノウハウを持つ私が、看護部長としてもう一度お役に立てるならばとお手伝いすることにしました。
 新病院開設までの準備期間の中で社会保険病院の古い病棟を利用し、新病院のために雇用された大勢のスタッフを1年かけて研修。人工呼吸器の取り扱いや高濃度輸液のやり方など急性期医療に必要な勉強会を重ねました。私自身も12時間夜勤を実現した福井大学病院の見学に行って学んだり、マニュアル作りなどにも奔走しました。新病院の開設は本当に大変なことでしたが、これまでの経験があってこその醍醐味があり、楽しい経験でした。
Message to Next

看護を学ぶなら大学がおすすめ。聖隷で将来の選択肢が広げる

 私が看護師を目指した時代と今では、医療は随分進歩しており、時代背景や患者層、求められるものも変わってきていますが「看護する」こと自体は変わらないと思います。学問や技術的なことは各自勉強、習得できますが、人を大事にする「思い」も忘れずに身につけてもらいたいと思います。
 私は、50歳を過ぎてから大学院で学びましたが、学びなおすことの楽しさも経験し、大学で学ぶことの意義を体験することができました。皆さんも看護を学ぶのであれば是非大学をお勧めします。他の学科の人とも交流しつつ、ゆとりの中で学ぶことが大切だと感じるからです。
 ひとくちに「患者さん」と言っても、年齢も職業も生活環境も様々です。看護はそんな人々と接する仕事ですから、視野を広げるためにも、大学で看護を学んでいただきたいと思います。

小島 菜保子 様(藤田医科大学 岡崎医療センター 副院長・看護部長)

聖隷学園浜松衛生短期大学 第二衛生看護学科
1988年度卒

管理者にしか見ることができない景色は、
看護が好きな人が努力してこそ見える壮大な景色

全国407校の選択肢から
浪人しても学びたい!と聖隷に進学

 看護師になりたいと思ったのは小学生の頃。早く看護師になりたくて、高校は衛生看護科で学びました。
 卒業を迎えた当時の2年課程看護学校は養成所349、高校専攻科42、短期大学16の計407校。聖隷学園浜松衛生短期大学は、同級生の紹介で知ったのですが、募集要項に書かれていた長谷川保先生の言葉に心を打たれ、たとえ浪人してでもここで学びたいと思いました。

学生寮の仲間、友人やその家族に支えてもらった2年間

 学生寮では、Ⅰ科、Ⅱ科、先輩、後輩の垣根を越えた交流があり、共に過ごした青春の日々を懐かしく思います。部屋で夜遅くまで話したり、浜名湖や舘山寺へドライブに行って遊びました。夜遅い時間に気賀の展望台、中田島砂丘へ行き、今のこと、これからのこと、将来のことなど明るくなるまで語り合ったのも良い思い出です。
 実習が始まると時間に追われて生活が不規則になっていきましたが、仲が良い友人と実習グループが一緒でしたし、朝食と夕食は友人宅でごちそうになっていたので実習を休むことなく乗り越えることができました。毎朝友人のお祖母さまに作ってもらった野菜ジュースは“浜松の母の味”です。

知らず識らずのうちに宿っていた聖隷スピリット

 振り返ってみると、聖隷には歴史と伝統が継承された風土がありました。病院実習でも、看護師長(当時の婦長)やスタッフによるカンファレンスや指導場面などでも同じ雰囲気を感じていました。建学の精神「隣人愛」という言葉はいろいろな先生がおっしゃっていましたが、当時は何となく理解できるくらいだったと思います。
 就職してからは、環境整備も患者さんへの声掛けも、聖隷の実習で学んだ方法を自分のやり方として実践してきたことが自信となり、楽しく看護師を続けてきました。ふと、建学の精神を無意識のうちに実践していたことを自覚した時、自分の中に聖隷の精神が宿っていたことを実感することができました。

恩師の著書は、看護のバイブル。弱ったときに自分が戻る場所

 聖隷社入社から聖隷の歴史の中で生きてこられた鈴木唯男先生の「傷ついた葦を折ることなく」は、卒業後何度も読んで、患者さんや家族の気持ちを学んできました。私の拠り所である一冊です。特に、ハニ姉妹と一緒に働いた時の看護の姿勢は、私自身の看護に対する姿勢を正すとき、原点に戻るメッセージとなっています。
 今看護している人に全てを集中し、その人のことだけを考えて看護する。これは、高度な技術や知識以前に、看護に携わる者として心得ておくべきことです。この上に気配りや信頼される技術があって、患者さんに寄り添った看護ケアを提供できるように経験を積み重ねてきました。

管理者の看護カラーで創り出す質の高いケアとスタッフのやりがい

 私は、看護副主任に始まり様々な管理職を経験してきました。管理者は「患者さんとスタッフの管理」を行います。病院という組織の中に看護部組織があって、管理者がいるからこそスタッフが共通の目標をもち、お互い助け合いながら患者さんへ良いケアが提供できるようになります。
 管理者は大変なこともありますが、誰もが管理者になれるわけではなく、適任である者が選ばれるのです。管理者が考えた明確な目標でスタッフの力を結集し、一人では成し得ない大きな目標を達成することもできます。管理者にしか見ることができない景色は、看護が好きな人が努力してこそ見える壮大な景色。
 自分がやりたい看護を実現するためにも、いつも患者さんのために最善が尽くせる看護師であるためにも、後輩の皆さんには臆することなくチャレンジしてもらいたいと思います。

管理者として携わったダイヤモンド・プリンセス号のコロナウイルス感染者の受け入れ

 私が勤務する藤田医科大学岡崎医療センターでは、開院前ダイヤモンド・プリンセス号に乗船していた新型コロナウイルス感染者と濃厚接触者128名を受け入れ、二次感染なく、全ての滞在者が無事退所することができました。
 私に声がかかったのは、受け入れ直前の日曜日。任されたのは、管理者として後述する3つのミッションを全うするプロジェクトでした。「自分は選ばれたんだ」と実感し、やる気が満ちたことを覚えています。とはいうものの、人員や備品の手配、勤務パターンの構築など、時間がない中でやるべきことは山積みでした。しかし、私たちに迷いはなし。次々とアイデアを出し、素早く行動するスタッフがとても頼もしく思えました。
 受け入れに際し設定したミッションは3つ。「滞在者を守る」「地域住民を守る」「我々が自分を守る」というものでした。院内では常に改善を施し、勤務後の自分たちの行動も徹底管理。乗客が退所するときに言ってくれる「ありがとう」の一言で、嬉し涙を流すシーンも度々見られました。
 看護は、人の人生を支援できる尊い職業。そんなことを改めて感じつつ、その根底には聖隷で身につけた精神が宿っていると実感した日々でした。
Message to Next

歴史と実績を誇る聖隷で、人生を支援する「看護」を学ぶ

 多くの看護師は病気を治療される方とその家族に接します。看護の対象はおなかの中の胎児から生涯を終える時、つまり人の一生に携わります。だからこそ、看護の勉強だけでなく人間性や社会一般の常識を身につけて患者さんへケアを提供していただきたいと思います。
 聖隷クリストファー大学は、1952年聖隷准看護師養成所から始まり、現在では基礎教育、英語教育、多職種間の連携と協働を学ぶ地域ケア連携教育、看護学部教育と卒業後働きながら学べる博士前期・後期課程があります。優れた実習環境もある聖隷で、自分を輝かせることができる看護を学んでください。