介護福祉実践者の気高さ
2022年8月10日更新
『おむつ交換をしている姿をみただけなのに、なぜ私はその姿に【気高さ】を感じたのだろう』
この【気高さ】を感じた相手とは、2011年3月11日に起きた東日本大震災直後から岩手県釜石市に設置された福祉避難所において支援活動をしていた介護福祉士の方々です。
それまでの私は、介護福祉の専門性を研究する立場として「介護福祉士の専門性」について学会や講演で伝えていたつもりでした。
しかし、福祉避難所における彼ら、彼女らの姿をまざまざと見せられた時、それまで私が伝えていた介護福祉士の専門性とは、あまりにも薄っぺらで、かつ表面的であったことに気づかされ、介護福祉士の方々への申し訳なさや恥ずかしさを感じました。
と同時に【気高さ】を感じたのを今でもはっきりと覚えています。
その福祉避難所には、震災前は自宅で介護サービスを利用して暮らしていた約20名の高齢者がいました。
ある日、この福祉避難所の支援に来ていた介護福祉士(男性)に対して、避難者(女性)が次のようなことを言ってきました。
「あの人、さっきから臭いんだよ。ウンチ漏らしているよ。」
その人が指差す先には、オムツをしている男性(山本さん=仮名=78歳)が布団に横になって、イヤフォンでラジオを聴いていました。
その介護福祉士は「じゃぁ、ちょっとみてきますね。」とその女性に伝え、さっと替えの下着(紙オムツ)をエプロンの中にしまい込んで、その山本さんのもとへ向かったのです。
その山本さんのところまでは5メートルとない距離です。しかし、その介護福祉士は一直線には向かいません。他の避難者とも話をしながら、極めて自然とその男性の場所に向かったのです。そして、山本さんと同じように横になって、目線の高さを合わせ、ゆっくりと話しかけました。
「山本さん、お茶っこさ飲みましょう。」山本さんはその男性に介助されて布団から起き上がりました。
「あ、そうだ! 山本さん、お茶っこさ飲む前にトイレさいきましょう。」
「おぉ、トイレ、行ぐか。」
そして、その介護福祉士は(おそらくトイレでおむつ交換や山本さんの身体の汚れを洗って)山本さんとトイレから出てきたのです。
その後、山本さんはお茶を飲み、「臭い」と言っていた女性やボランティアとトランプをし始めました。
山本さんが粗相をしていたかどうかの真実は、山本さんとその職員以外、誰も知りません。そこには周囲に気づかれないだけではなく、山本さん自身にも気づかせない専門技能が確かに存在し、展開されていたのです。まさに排泄介助(介護)を通して尊厳(福祉)を実現する「介護福祉実践」でした。
一部始終を見ていた私は、その職員に対して「さすがです。感動しました。」と伝えると、一瞬その人は驚いた表情をみせましたが、さり気なくも堂々と言い切りました。
「普通ですよ。」と。
私は鳥肌が立ちました。そしてこの瞬間、わかりました。
私が介護福祉士に感じた【気高さ】とは、介護福祉士の「周囲に気づかれない実践」と「本人に気づかせない実践」なのだと。
私が同じことを頼まれれば、紙オムツを手に持ち、「臭い男性」のところまで一直線に行くでしょう。そしてトイレ誘導を懸命にすることでしょう。
そのうち周囲もそのことに気づき、その男性の事情を知ることになってしまいます。
しかし、『目的を達成するためには仕方がないこと』として、私は次も同じやり方をするでしょう。
私のような素人が行う排泄介助も広い意味では介護なのかもしれません。しかし、そこに【気高さ】を感じさせるものはありません。いわんや「周囲に気づかれない実践」や「本人に気づかせない実践」のための専門技能などもありません。なぜなら、排泄介助という介護はしていても、福祉の実現など考えない素人の排泄介助だからです。
この介護福祉士の【気高さ】という見えない専門技能を感じるだけではなく、正体を知りたい。そしてその正体を世間に伝えたいという思いから、介護福祉士の観察・確認視点に焦点を当て、この見えない【気高さ】という品格を見える化し、さらには見せる化することに挑む決心を私はしたのです。
この【気高さ】を感じた相手とは、2011年3月11日に起きた東日本大震災直後から岩手県釜石市に設置された福祉避難所において支援活動をしていた介護福祉士の方々です。
それまでの私は、介護福祉の専門性を研究する立場として「介護福祉士の専門性」について学会や講演で伝えていたつもりでした。
しかし、福祉避難所における彼ら、彼女らの姿をまざまざと見せられた時、それまで私が伝えていた介護福祉士の専門性とは、あまりにも薄っぺらで、かつ表面的であったことに気づかされ、介護福祉士の方々への申し訳なさや恥ずかしさを感じました。
と同時に【気高さ】を感じたのを今でもはっきりと覚えています。
その福祉避難所には、震災前は自宅で介護サービスを利用して暮らしていた約20名の高齢者がいました。
ある日、この福祉避難所の支援に来ていた介護福祉士(男性)に対して、避難者(女性)が次のようなことを言ってきました。
「あの人、さっきから臭いんだよ。ウンチ漏らしているよ。」
その人が指差す先には、オムツをしている男性(山本さん=仮名=78歳)が布団に横になって、イヤフォンでラジオを聴いていました。
その介護福祉士は「じゃぁ、ちょっとみてきますね。」とその女性に伝え、さっと替えの下着(紙オムツ)をエプロンの中にしまい込んで、その山本さんのもとへ向かったのです。
その山本さんのところまでは5メートルとない距離です。しかし、その介護福祉士は一直線には向かいません。他の避難者とも話をしながら、極めて自然とその男性の場所に向かったのです。そして、山本さんと同じように横になって、目線の高さを合わせ、ゆっくりと話しかけました。
「山本さん、お茶っこさ飲みましょう。」山本さんはその男性に介助されて布団から起き上がりました。
「あ、そうだ! 山本さん、お茶っこさ飲む前にトイレさいきましょう。」
「おぉ、トイレ、行ぐか。」
そして、その介護福祉士は(おそらくトイレでおむつ交換や山本さんの身体の汚れを洗って)山本さんとトイレから出てきたのです。
その後、山本さんはお茶を飲み、「臭い」と言っていた女性やボランティアとトランプをし始めました。
山本さんが粗相をしていたかどうかの真実は、山本さんとその職員以外、誰も知りません。そこには周囲に気づかれないだけではなく、山本さん自身にも気づかせない専門技能が確かに存在し、展開されていたのです。まさに排泄介助(介護)を通して尊厳(福祉)を実現する「介護福祉実践」でした。
一部始終を見ていた私は、その職員に対して「さすがです。感動しました。」と伝えると、一瞬その人は驚いた表情をみせましたが、さり気なくも堂々と言い切りました。
「普通ですよ。」と。
私は鳥肌が立ちました。そしてこの瞬間、わかりました。
私が介護福祉士に感じた【気高さ】とは、介護福祉士の「周囲に気づかれない実践」と「本人に気づかせない実践」なのだと。
私が同じことを頼まれれば、紙オムツを手に持ち、「臭い男性」のところまで一直線に行くでしょう。そしてトイレ誘導を懸命にすることでしょう。
そのうち周囲もそのことに気づき、その男性の事情を知ることになってしまいます。
しかし、『目的を達成するためには仕方がないこと』として、私は次も同じやり方をするでしょう。
私のような素人が行う排泄介助も広い意味では介護なのかもしれません。しかし、そこに【気高さ】を感じさせるものはありません。いわんや「周囲に気づかれない実践」や「本人に気づかせない実践」のための専門技能などもありません。なぜなら、排泄介助という介護はしていても、福祉の実現など考えない素人の排泄介助だからです。
この介護福祉士の【気高さ】という見えない専門技能を感じるだけではなく、正体を知りたい。そしてその正体を世間に伝えたいという思いから、介護福祉士の観察・確認視点に焦点を当て、この見えない【気高さ】という品格を見える化し、さらには見せる化することに挑む決心を私はしたのです。
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